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史料のなかの軍人たち ―知られざる素顔―

陸軍中将 樋口 季一郎 きいちろう   明治21年~昭和45年〔兵庫〕

-終戦後、ソ連軍の停戦無視に自衛戦闘を命じた軍司令官-

主要略歴

明治42年5月陸軍士官学校卒業(21期)、大正7年11月陸軍大学校卒業(30期)
大正13年8月少佐、14年5月ポーランド公使館付武官、昭和3年7月帰朝、
昭和3年8月中佐、4年8月技術本部付(陸軍省新聞班員)、5年8月東京警備参謀、
8年3月大佐、8月歩兵第41連隊長、10年8月第3師団参謀長、
12年3月参謀本部付(ドイツ出張)、
12年8月少将・ハルビン特務機関長、13年7月参謀本部第2部長、
14年10月中将、12月第9師団長、17年8月北部軍司令官、18年2月北方軍司令官、
19年3月第5方面軍司令官、20年12月予備役
16年3月中将、18年4月第26師団長、19年7月船舶司令官(17年7月船舶輸送司令部を改編)兼陸軍運輸部長

人物解説

 樋口は、昭和13年3月、ハルビン特務機関長として満ソ国境オトポール駅に殺到したユダヤ人難民に対しビザを発給の上、輸送列車などを手配、大連・上海へと向かわせています(オトポール事件)。

 樋口は17年8月、北部軍司令官として札幌に着任、「アッツ島、キスカ島は陸海両軍による捨て児」と指摘し、両島の兵力増強と補給確保を要求します。18年5月、米第7師団がアッツ島に上陸すると、同島の防備増強を訴えていた樋口は、逆上陸作戦を意見具申しますが、大本営はアッツ島放棄を決定、樋口は涙を呑んでアッツ島の山崎保代大佐に「散華」を要求します。  樋口は終戦間際の8月3日、戦局悪化に伴いソ連軍の樺太侵攻を予期し、南樺太の第88師団に準備を命じます。樋口の予想通り、ソ連軍は8月11日、南樺太侵攻を開始、15日を過ぎても停戦に応じず、19日、樋口は「飽ク迄自衛戦闘ヲ敢行スベシ」と命じます(下掲史料①)。一方、前日の18日、ソ連軍は北千島占守島に上陸を開始しました。樋口は驚愕しますが、断固反撃を電令し、水際でソ連軍の上陸部隊に大損害を負わせます。樋口の抗議を受けた大本営は、「マックアーサー」司令部に「占守島攻撃ニ関スル抗議ノ件」を送付しました(下掲史料②)。樋口は戦後、「もし占守島の自衛戦闘がなかったら、ソ連軍は、・・・北海道にまでこれと同じ手で上陸してきたかも知れない」と回想しています。

関連史料

関連史料 ①②「連合国との折衝関係事項 其の三」(文庫ー柚ー9)

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