太平洋戦争③ 連合艦隊司令長官・山本五十六戦死80年

1. ハワイ作戦

史料名:
「昭和16年12月~17年1月 第5航空戦隊戦闘詳報」
(請求記号 ③大東亜戦争、ハワイ、10)

「昭和16年12月~17年1月 第5航空戦隊戦闘詳報」(請求記号 ③大東亜戦争、ハワイ、10)

連合艦隊司令長官山本五十六は、開戦劈頭、真珠湾の米太平洋艦隊に対する奇襲攻撃成功によって、米国民の戦争遂行意欲を喪失させようとしました。昭和16(1941)年12月8日、機動部隊は、雷撃隊、戦闘機隊、急降下爆撃隊、水平爆撃隊によって、戦艦群や飛行場などを攻撃します。

本史料は、奇襲攻撃に参加した第1航空艦隊第5航空戦隊の戦闘詳報です。8日3時37分(日本時間)、山本は機動部隊から「奇襲成功」の知らせを受けたとわかります。

2. ドーリットル空襲

史料名:
「昭和十七年四月 空襲被害調査報告 陸軍築城本部」
(本土、全般、176)

「「昭和十七年四月 空襲被害調査報告 陸軍築城本部」(本土、全般、176)」
「「昭和十七年四月 空襲被害調査報告 陸軍築城本部」(本土、全般、176)」
「「昭和十七年四月 空襲被害調査報告 陸軍築城本部」(本土、全般、176)」
「「昭和十七年四月 空襲被害調査報告 陸軍築城本部」(本土、全般、176)」

昭和17(1942)年4月18日正午過ぎ、東京をはじめ本州各地に対し、米陸軍中佐ジェイムズ・ハロルド・ドゥリトル(James Harold Doolittle)指揮下の爆撃機16機が空襲を敢行します。これは、日本本土に対する初めての空襲でした。このドーリットル空襲により全国で数十か所が攻撃を受け、死者は約90名、負傷者は400名以上、全壊全焼家屋は100戸以上、半壊半焼は50戸以上に及びました。

本史料は、この際の被害写真および関連する図です。日米開戦前から米軍機の本土空襲を懸念していた連合艦隊司令長官山本五十六のみならず、この空襲を受けて軍令部も陸軍も、本格的にミッドウェー作戦の準備を進めていきました。

3. ミッドウェー作戦

史料名:
「昭和17年6月1日~30日 佐世保鎮守府戦時日誌」
(④艦船・陸上部隊、戦闘詳報‐戦時日誌、418)

「昭和17年6月1日~30日 佐世保鎮守府戦時日誌」(④艦船・陸上部隊、戦闘詳報‐戦時日誌、418)
「昭和17年6月1日~30日 佐世保鎮守府戦時日誌」(④艦船・陸上部隊、戦闘詳報‐戦時日誌、418)
「昭和17年6月1日~30日 佐世保鎮守府戦時日誌」(④艦船・陸上部隊、戦闘詳報‐戦時日誌、418)

ミッドウェー攻略作戦は失敗し、主力空母4隻を失うという大損害を出しました。海軍はこの事実を隠します。

本史料は、ミッドウェー海戦後、海軍次官・軍令部次長から各艦隊・鎮守府等司令長官に宛てて送られた機密電報です。海軍部内一般および在外武官に、公表情報以外は一切発表せず、陸軍に対しては、ミッドウェー作戦を戦争遂行上「延期」したと説明していることがわかります。

4. 戦死と国葬

史料名:
「山本元帥国葬関係綴」
(①中央、その他、24)

「山本元帥国葬関係綴」(①中央、その他、24)
「山本元帥国葬関係綴」(①中央、その他、24)
「山本元帥国葬関係綴」(①中央、その他、24)
「山本元帥国葬関係綴」(①中央、その他、24)
「山本元帥国葬関係綴」(①中央、その他、24)

連合艦隊は、カダルカナル島からの撤退後、引き続き米航空兵力の撃滅を企図していました。長官山本は、ドーリットル空襲からちょうど1年後の昭和18(1943)年4月18日、「い」号作戦の終了後、前線部隊視察のため一式陸攻で向かう途中、米戦闘機に襲撃され、ブーゲンビル島にて戦死します。山本の国葬は、ミッドウェー作戦からちょうど1年後の昭和18年6月5日に執り行われました。

本史料は、戦死した山本の遺体状況に関する記録と、警視庁警務部長から関係警察署長に宛てられた山本の遺骨「警戒要綱」です。山本の遺体は、発見時、比較的腐敗が進んでおらず、軍刀を左手に握り、右手でそれを添えたまま、左を下にした状態でした。また、「警戒要綱」によると、遺骨は、山本と海軍兵学校同期で親友の堀悌吉が「捧持」し、海軍省の自動車に乗って横須賀駅から東京の水交社まで運ばれたとわかります。